تسجيل الدخول「美緒様、美緒様」上原さんが私を呼んでいる。返事をしたいのに、頭が痛む。大丈夫、誰も呼ばないで、そう言いたいのに言葉が出ない。すぐにバタバタと誰かが部屋に走って入って来る音が聞こえる。「美緒!」ついさっき、私にスマホを渡して部屋を出て行ったばかりの九条征哉が私を抱き上げる。「大丈夫か? どうした?」優しい声でそう聞く九条征哉に私は顔を歪めて言う。「頭が……痛いの……」涙が出て来る。手が震える。私のそんな手を九条征哉が優しく握る。「大丈夫だ、俺に任せて」九条征哉はそう言って私の額に口付け、私を抱き締める。薄らいでいく意識の中、私の耳には九条征哉の声が聞こえる。「美緒を病院に連れて行く……」◇◇◇腕の中の美緒が意識を失うほんの少し前。「征哉……」俺を呼ぶ美緒の声……。初めて俺を名前で呼ぶ、その声に俺は心が震える。心臓を鷲掴みにされたように苦しく、辛く、そしてこの上なく幸福だと感じる。俺は美緒を抱き締めたまま、言う。「美緒を病院へ連れて行く、車を回せ」美緒を抱き上げ、歩き出す。(一体、美緒の身体に何が起こっているんだ……)足早に歩き、玄関前に付けた車に乗る。「病院だ、うちの息が掛かっているところへ」美緒は世間的にはもう死んでいる人間だ。戸籍上は存在しない。だが美緒の身体の状態を知る為には、以前の美緒のカルテが要る。このまま一旦、美緒を強制的に眠らせ、身体の状態を確認した方が良いだろう。抱き上げた美緒は軽く、細い。抱き締めたら折れてしまいそうな程だ。美緒を抱きくるみながら、俺は言う。「急げ」◇◇◇ロイゼンデリア国際医療センター。車を病院の裏側へ停めさせ、美緒を抱いて院内へ入る。すぐさま駆け寄って来る人物。「九条様」そう言って頭を下げる人物は、ここロイゼンデリア国際医療センターの院長である横山だ。「極秘で入院させる。身体の検査を一通りしろ。本人に悟らせないように、眠らせてからだ」そう言うと横山が頷く。「すぐにお手配を」病院の中を歩き、人目に付かないよう、特別室に入る。美緒をベッドへ横たえると、数人の医師が部屋に入って来て挨拶し、看護師も数人入って来る。「横山」呼ぶと院長が来る。「はい、九条様」俺は数人の医師に囲まれている美緒を見ながら言う。「彼女には事情がある。その事情は知らなくて良い。黙って俺の命
「私のスマホの存在がそんなに重要?」そう聞くと九条征哉が言う。「いや、むしろ無い方が都合が良い」そう言われて私は笑う。(そうれはそうでしょうね)九条征哉は私の頭をもうひと撫ですると言う。「美緒、お前の新しい身分を作る……名は何が良い?」そう聞かれて笑う。「私の希望を聞いてくれるの?」九条征哉が口元をほんの少しだけ緩め、言う。「呼ばれたい名があるなら、とそう思っただけだ」私は九条征哉から視線を外し、新しいスマホへと視線を移す。「何でも良いわ、私はもう一度、死んでるんだもの」そう、一ノ瀬美緒は死んで灰になった。私はもう一ノ瀬美緒としての人生を終えたのだ。スマホが立ち上がる。フッと九条征哉が笑った気がして、九条征哉を見る。九条征哉は私を見て、言う。「新しいおもちゃを貰った子供みたいだな」そう言われて私は視線を外し、寝返りを打って九条征哉に背を向ける。(調べたい事があるのよ、どうしても確かめないと)そう思い操作を始めたけれど、九条征哉は私のベッドに腰掛けたままだ。(いつまでそこに居る気なの?)そう思いながらも私はまるで新しいおもちゃを弄る子供のように、最新のスマホの機能を確かめる。「征哉様、お仕事のご予定が」日下部さんがそう言う。九条征哉は私の背中を撫で、立ち上がると言う。「良いか、ゆっくり休むんだ。これは命令だからな」そう言って歩き始め、途中で足を止めて振り向く。「あ、それから。つけたい名前が思い付いたら教えてくれ」そう言って出て行く。(どういう風の吹き回しなの?)そう思いながら私はベッドの中で新しいスマホを操作し、カレンダーを表示させる。私が確かめたかった事、それは時系列だ。スマホのカレンダーが示す日時。そして私が記憶しているあの夜。どう計算しても合わない。どうして私は記憶が飛び飛びなんだろう。そう考え出すと急に胸が苦しくなる。キンと頭が痛くなる。呼吸が荒くなり、冷や汗をかき始める。私の身体に何が起こっているの? どうして私は記憶が混濁しているの?「美緒様……?」傍に居た上原さんが私に声を掛けて来る。「大丈夫ですか? どこか具合が……?」何でも無い、大丈夫だと言わなければ……そう思っているのに、言葉が出て来ない。頭の中が誰かに改ざんされているような気がする。一体、何なの……どういう、事なの
鎮痛剤を飲み、ベッドに横になる。堕胎手術を受けたのが一昨日だというのに、もう遥か彼方、昔の事のように感じてしまう。「美緒様」呼ばれてベッドのすぐ傍まで来ていた上原さんを見る。「お医者様から追加のお薬を頂いております。貧血のお薬だそうです」そう言われて私は体を起こし、上原さんが持って来てくれた貧血の薬を飲む。自分の左手薬指にはめられている指輪が光る。(冷たい指輪、氷の契約書……私にピッタリね)そう思い、また体を横たえる。鈍い痛みに顔をしかめる。「何かありましたら、何なりと仰ってください」上原さんはそう言って私に掛かっている寝具を直す。私の身体はボロボロだ。無理をし過ぎたかもしれない。本当ならあの療養所で私は自分の無力さを嘆きながら体を横たえ、そして爆発と共に死んでいた筈だった……。そうだ、爆発。あれは結局、華瑛が仕掛けた事なんだろうか。(そうよね、そうに決まっているわ)けれど……じゃあ何故、堕胎手術を?療養所の爆発に乗じて私を殺すなら、堕胎手術なんてしなくても良かったんじゃない?よみがえる、あの言葉。アレはきちんと残しておけアレと呼ばれたのは私のお腹の中に居た子供の事だろう。まだ小さい命……下腹部に手を当てる……ほんの少しの膨らみがあった筈の場所を撫でる。……待って。おかしい。どう考えても時系列が合わない。私のお腹の中の子供は……私の思っている月齢よりも……。痛む下腹部を気にしながら私は寝返りを打つ。上原さんが静かに待機している。「上原さん」呼ぶと上原さんがサッとベッドの脇まで来る。「何でしょう」そう聞かれて私は言う。「何か書くもの……」そう言いながらふと思い付く。「スマホが欲しいんですけど」そう言うと上原さんが少し微笑み、言う。「征哉様に確認を取って参ります」そう言って一礼し、部屋を出て行く。(そうよね……スマホなんて外部へ連絡が取れるものだものね……)九条征哉は欲しいものは何でも言えと言ったけれど、私に自由は与えてはくれないだろう。それに関しては私自身も覚悟はしている。氷の契約のの通り、私は“生きていた”頃の人間とは接触を持ってはならないし、私自身、そんな人たちと接触しようとは思わない。(何か書くもの、の方が良かったわね……)そう思いながら私は豪奢な天蓋を見つめる。部屋の扉がノックされる。「
頭の中が真っ白になる。生きている……。一ノ瀬美緒のお腹の中に居た子供が……。「所在は分かるのか?」そう聞くと日下部が頷く。「既に人をやっています」そう言われて俺は少し考え、そして言う。「美緒には知らせるな、全て秘密裏に進めろ。奪還するんだ、大事な子を」そう言うと日下部が頭を下げて言う。「御意」部屋に一人になり、考える。まだ日が明けてそれ程、経っていない ――普段なら仕事に出向き、退屈な連中を相手に退屈な時間を過ごしている時間帯だ。俺は朝からの激動の動きに少し微笑む。一ノ瀬美緒が俺の人生に現れてから、俺の人生は一変した。あの夜、悪意のある人間の策略だったとしても。一ノ瀬美緒と出会い、関係を持ったあの感覚は、俺のそれまでの人生がいかに退屈だったかを思い知らされる出来事だった。あの夜以降、また退屈な時間を過ごしていた俺にもたらされた一ノ瀬美緒の訃報。失ってしまうかもしれないという可能性について、気付く間もなく失い、俺は喪失感に囚われていたのに。彼女が自ら、俺の元へ飛び込んで来たのだ。そして知らされた事実 ――一ノ瀬美緒は俺の子を妊娠していた可能性があった事、そして既に彼女自身は堕胎手術を受けている事、そのせいでその命は失われたと彼女自身は思っているだろう。その子供が生きているとなれば、それは奪還しない訳にはいかない。美緒の身体はそういう事情を抱えていた訳か……だからあんなに疲弊していたんだと分かると、更に怒りが募る。全てのピースが俺の元に集まって来た。あの夜、一ノ瀬瑛理香と高橋翔太が共謀し、俺と一ノ瀬美緒に関係を持たせた。その根底にあるのは一ノ瀬家の乗っ取りと、一ノ瀬美緒の排除だろう。そして何故、堕胎した後に取り出された命が生かされているのか。一体、何を企てて、何をしようとしていたのか。一ノ瀬美緒はどうやって生き延びたというんだ?その辺りも探りを入れた方が良いだろう。きっと一ノ瀬美緒に手を貸した者が居る筈だ。一ノ瀬華瑛、一ノ瀬瑛理香、一ノ瀬恭介、高橋翔太……全員揃って地獄に送ってやる。◇◇◇一ノ瀬美緒が死んだ。これで私はやっと目的の半分を達成したという訳だ。葬儀から戻って、さすがにその日のうちに一ノ瀬美緒の部屋を片付け始めたら、夫にも、世間にも申し訳が立たない。だから私は片付けたい気持ちをグッと我慢する。
ベッドに横になって少し経った頃。部屋の扉が開いた。上原さんだろうかと視線を向ける。部屋に入って来たの九条征哉だった。しかもサービングカートを自ら押して。「食事を持って来た」そう言われて私は驚きながらも体を起こす。(何故、九条征哉本人が……?)そう思いながら私は半身を起こし、九条征哉が運んで来た食事を見る。「体調が優れないだろうから、体に優しいものを作らせた」そう言って九条征哉は背後に居る日下部さんに頷いて見せる。日下部さんは微笑んで私の居るベッドにベッド用のテーブルを置き、九条征哉がそのテーブルの上に温かいスープを置く。「貧血のようだな」九条征哉がそう言ってベッドサイドに椅子を置き、座る。さっき私が倒れたのが貧血のせいだと思ってくれているなら、都合が良い。「えぇ、昔からそうなの」そう言って私は自分の不調を隠す。「食べてくれ、貧血が良くなるよう、それ用に作らせた」(一体、九条征哉はどうしたと言うんだろう?)そう思いながらも私は鎮痛剤を飲む為にスープを口にする。「……美味しい」言うと九条征哉が小さく頷く。「それで良い」九条征哉はそう言って後ろに控えている上原さんに視線を送る。上原さんはサッと前に出て、真っ白な薬の入った袋を差し出す。九条征哉がそれを受け取り、言う。「鎮痛剤だ」そう言ってテーブルの上にその袋を置く。(そう言うという事は……痛みがあるという事を知っているのね)正直、九条征哉がそんなところにまで気が回るとは思っていなかった。私個人に対してはそれ程、興味など無いと思っていたから。「多田は……処理済みだ」
吐き気がする。美緒をあんなふうに扱っておきながら、俺に対しての想いをこんな形で表現するとは。女の嫉妬なんてこんなものだ。俺は立ち上がり、多田を見下ろす。「お前は俺の命令に背いた。何もしなかったとお前は言うが、俺は敬意を払えと言ったんだ。何もするなとは言ってない。従ってお前はもう九条家には不要の人間だ」そう言い放つと多田が俺に縋ろうと手を伸ばす。その瞬間、日下部がサッと動いて、多田が伸ばしたその手を蹴り上げる。「触れるな! 汚らわしい」俺は蹴り飛ばされた多田を一瞥し、踵を返す。歩きながら言う。「これより三日間、自省の間にて反省を促し、それ以降は九条家及び、関係各所から追放だ」そう言って自省の間を出る。叫び声が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。(五体満足で屋敷を出られる事に感謝するんだな)そう思いながら俺はその最奥から本屋敷に戻る。◇◇◇温かい……寝返りを打つ。柔らかい感覚……。美緒……誰かの声、すごく優しくて、その声に愛情が込められているのを感じられる……。温かい誰かの手が私の頭を撫でている……。この手は誰の手なの……?不意に感じる不快な痛み……そうだ、私は堕胎手術を受けて……!ハッと目が覚める。豪奢な天井が見えて、現実に引き戻される。そうだわ、私……シャワーを浴びて、具合が悪くなって倒れたんだった……。体を起こす。ベッドに寝かされている……。(誰かが助けてくれたって事?)自分が倒れた場所を見る。シャワールームから出てすぐの場所、そこはもう私が倒れた形跡すら無かった。部屋を見回す。私が倒れる寸前、見たあの光景。多田さんが私に対し、暴言を吐いている最中に見たものは全て、綺麗に片付いている。食べ散らかしたようなテーブルの上のお菓子も、多田さんが投げたソファーの上の雑誌も。そして何よりも、私は今、きちんと下着を付けている。誰かが私を着替えさせたという事だ。ズキズキと痛む下腹部を感じながら、私は冷静に考える。私が倒れ、気を失っている間に、部屋は綺麗に片付き、私は下着を付けられ、ベッドに居る。これを命じたのはおそらく九条征哉だろう。氷の契約書にサインさせ、血判を押した私の血の流れた親指を口に含み、冷たい指輪で私を拘束した男……その男が倒れている私をこんなふうにベッドへ戻したというのだろうか。不意に扉が開く。入って
及川との通話を切る。軽く溜息をつき、私は私の夫の元へ向かう。入るなと命じられている部屋に近付く。中からは嗚咽が聞こえる。私は静かに扉を開け、中に入る。部屋に入って来た私を見て、私の夫は視線を伏せる。私は夫に近付き、その肩を抱く。「火事は事故だったのよ……」慈愛を込めた声を装い、そう言う。「あの子の葬儀はもう手配しました。だから安心して、あなた」肩を抱いた私の手を握る、私の夫は泣き崩れている。「すまん……」夫はそう呟くように言って、肩を揺らす。私はそんな可哀想な夫を見つめながら、ほんの少し微笑む。部屋を出て、扉を閉めて。笑みが零れるのを我慢出来なかった。誰にも聞こえない声で
目の前で。オレンジの炎が燃え盛っている。夜空に映える炎のオレンジ色はその触手を天に伸ばし、更に炎自身が燃えるものを探している。炎の触手の先からは黒煙が立ち上り、夜空の星を覆い隠す。私を閉じ込めて、絶望の淵へ追いやった療養所という“檻”は、今はもう燃えながら歪み、崩れ落ち、灰と化して行く。「お嬢様」及川が私の横に立つ。「今この瞬間からお嬢様は灰になりました。もう一ノ瀬家の令嬢ではございません」全ては燃えて灰になった……私と一ノ瀬家の縁も、そして未練も全て燃えて灰になったのだ。思い出されるのは幼い頃の記憶――お母様が生きていた頃は……私もお父様に確実に愛されていた。お母様とお父様
及川は私を見つめ、頷く。「お嬢様、生き延びてください。それもあなたのお母様の最後の願いなのですから」そう言われて私はポロポロ落ちる涙を拭い、聞く。「私は、何をすれば?」及川が簡潔に言う。「時間がありません。今すぐにお嬢様のお召しになっている服とネックレスを外して頂けますか」及川はそう言って自分の足元にある遺体袋を見る。「この遺体にお嬢様の服を着せ、ネックレスをつけさせます。そうすればお嬢様は死んだ事になり、万が一にも生きている事が知られたとしても、その時にはお嬢様はここから遠い地へ離れている事でしょう」及川は私に紙袋を渡す。「着替えは中に」その紙袋を受け取る。漆黒のワン
目が覚める……。チカチカと視界が霞む。寝かされている場所は……色味の無い部屋……? (ここは……どこ……?)(昨日のあれは……夢だった……?)微かな希望だった。昨日の夜の事は私を襲った悪夢、そう思いたかった。けれど。







